野本明裕先生インタビュー
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野本明裕先生インタビュー

野本明裕先生にインタビューを行いました。

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幼少時代
とにかく自然児だった。赤とんぼなんて指をたてればすぐ止まり、つまめばすぐ捕まえられたしさー。 大きいトンボは針金でわっかを作りクモの巣の厚い膜を作って、何百匹も捕まえていた。
思い出はたくさんある。 泳ぐのは川で、きゅうりを盗んで食べたり、夏に野生の山葵の場所を確認しておいて、 3月になるとニシンがくるのでニシンを取りに行き、夏に場所を覚えておいた山葵をスコップを担いで取ってきて下ろして食べたり・・・。桑の実のおいしかったこと。水芭蕉が田んぼのあぜ道にぶわーって咲いていた。
終戦後カラフトから引き揚げてきたおばあちゃんとおじさんとの思い出も。春にリヤカーに6つも7つもリュックサックを積んで蕨をたくさんとってきた。蕨蕨蕨・・・。
ある意味しあわせだよね。 本当に楽しい思い出ばかり。
おやつなんてないので、駅の裏の池で大きいニシンを垂らして、淡水のエビ取ってフライパンで炒って食べた。 山へ行って食べられるものはよく知っているよ。
本当に自然とのふれあいしかなかった幼少時代・・・って感じだね。
音楽との出会い
音楽との出会いはね、おやじが町内会の班長で蓄音機があったこと。軍歌のレコードがたくさんあり、毎日かけて聴いていた。よくトイレで壁をたたきながら大きな声で歌っていた。 「父よあなたは強かった~~」
流行歌はすぐ覚えて歌っていたね。「まだ小学生なのに子供が流行歌なんか歌うな!」と怒られた。 大人の恋の歌だから。
トラウマ
トラウマといったらいいか分からないが。 北海道の幼年時代は人も周りの環境も大好きだったので東京に引っ越してくるのが本当に嫌だった。
引っ越しの日。秋の日の朝5:00頃だったかな。友達が送りに来た。言葉も出ない。顔も見れない。そのときのことを思い出すと涙が出る。 人と人との別れが本当に嫌いなの。人と人が別れるのが一番辛い・・・。テレビで船で別れる場面なんて観ていて涙が出てくる。人が好きだ。自分自身では優しいと思っている。態度もでかいし口も悪い。家でテレビ見て泣いているとみんなからからかわれる。 そのトラウマから来ているのかもしれない。
幼年時代
終戦後昭和25,26年ごろ小学校4年生で東京本郷に出てくる 。東大構内は爆撃に合わず周辺の町は古い家が多くて、小学校のクラスメートはお金持ちのお坊ちゃん、お嬢さんばかり。水洗便所で水がどばーっと出ることに驚いた。 友達の家にドラムセットがあった。
北海道でおやじが証券会社で働いていたが空襲で閉鎖。1年たっても2年たっても開場されず北海道電力の下請けで秋葉原に来ていた。 証券の売買は東京で行われていたので家族で東京に出てくることになる。 小学校の友達は、あのころ見たこともないすじこ、たらこを食べていた。考えられないね。いつもあずきの入った弁当を食べていて、もち米ではないのに「野本おまえいいな。毎日お赤飯だもんな」と馬鹿にされた。お金は本当になかった。 友達はみんな私立のいいところに行ったよ。
東京でいとこが養女に入っていてその家を買って我々が住むことになった。東大の国文科を卒業したいとこが、たくさん本を持っていた。 小学校4、5年生ごろは武者小路実篤を読んだり、とにかく本をよーく読んだ。 今のボキャブラリーの豊かさはそのころのもの、自分にとっては大切な財産だ。
中学時代
中学に入る。(文京6中)
東京に引っ越してきた時はいなかっぺだから差別があった。でも、だが幸いにもまあまあ勉強ができたので仲間に入れてもらえた。辛かった思い出が全くないね。 金持ちの家に遊びに行っていた。あの頃お誕生日会があったんだもん。信じられないよ。 何にも持って行ったことはないけどね。 お金はなかったからね。
進学校に入学した時はクラスで2番だったのに出来のいいのがどんどん入ってきて、65人中50番くらいになってしまった。何しろ勉強しなかったからね。
東大という遊び場があった。中学3年間は本を読むか、東大で鳥の巣を探したり、守衛の目を盗んで遊んだりしていた。 蝉の幼虫が土から出てくるの知ってる?出た穴とこれから出てくる穴の区別をして、早朝行って穴掘って幼虫をとって殻が割れるのを見て、そんなことばっかりやっていた。 本ばかり読んでなんの稼ぎにもならないと、親父にいつも怒られた。 「そんなに読みたかったら外で読め、 電気代がもったいない」と、布団ごと外に放り出されたことがある。 そのくらい本を読んだ。 成績がいかにおっこちたか・・・
高校時代
高校受験の時、都立文京高校に行きたいといったら、おまえは無理だと言われ、城北高校に行くことになる。ガキ大将と願書を持って行かされた。ふきっさらしの畑に木造の校舎。誰もいない。 てぬぐいのおじさんに願書を渡した。城北との出会い!!
いつもプロレスごっこをなどをして遊んでいた。
高校に入ったら教頭先生(体育の先生)に、「おまえは文京6中だな。 準備体操はどのようにやるのか?」と質問され「心臓に遠い場所から行います」と答えたら褒められた。中学のとき跳び箱も飛べなかったのにこの褒められた経験で自信になり、何段も飛べるようになった。
合唱との出会い
中学から音楽が大好きだった。当時アメリカからの援助で楽器があり、 ブラスバンドがあったが下町と山の手ではっきりしていて入れなかった。もしここで入っていたら違う人生が・・・。歌に関しては、自分には 変声期があまりなかったが、当時は、歌を歌うのは女々しいことだと思われていた。
高校には音楽部(女声合唱30人くらい)があった。 男友達7,8人を誘い混声合唱団を作った。
4/1に入団して5/8には日比谷公会堂で初舞台、 「ロンドンデリーのうた 」「讃美歌」を歌った。
そのOB合唱団がのちにコール・シャンティーとなる。
音楽部の先生は美人でとてもいい先生だった。甘味をいつもおごってくれてさー。 NHK合唱コンクールで全国1位になった。
生徒会
女子からはりきり坊やと言われてちびでかわいがられて、 まだ1年生なのに音楽部の女性部長の応援により生徒会役員の選挙に出ることになった。 まだそのころは自分の意見を言えるような感じじゃなかったのに・・・。
1年で副会長、2年から生徒会長をした。
国語が特に得意だった。校長先生に気に入られ、漢文の授業を毎日30分直々に教えてもらったのもいい思い出。
山との出会い
高1の時富士山に登る、これが山との出会い。 マラソン大会でいい成績がとれなくて、悔しくて毎日東大を20周走っていた。東大のプールでも1500m泳いでいた。とにかく足に自信があった。富士登山速かった。1合目から登って5合目に泊り、昼には下山していた。そのあと湯河原に1:00について海で一人泳いだ。 高2の頃はたくさん山に登った。とにかくここまでも挫折がない。不幸な思いがない。ストレスがない。
高校時代は、女の子と一緒にいても全く色気がなかった。奥手だったんだ――
大学時代
実は子供のころジャーナリストになるのが夢だったので、 上智大学ではそういったことを学べるだろうと思って入学した。
新聞学科に入ったが、グリークラブに4年間どっぷり。 駅のそばに喫茶店があり酒も飲めないので後輩と哲学的な話をたくさんした。 西洋美術史、宗教学、愛、神・・・等
民法の勉強もした。自然人と法人には人格がある。自分勝手は許されない。 国が人に税金を払えというようにシャンティーにも人格がある。
とにかく4年間はぎゃんぎゃん歌っていた。今となってはその当時の録音は絶対聞きたくない。
その頃もまだ色気がなくて、純粋な愛を考えていた。
上智に入ってよかった。血が通っている。 教えるものと教えられるもの・・というかさ。
今年 同祝 50年(卒業50年)で、祝ってもらえる。なかなかないことだよね。
本当に心の中のほこりだし愛している。

当時、上智の学長がグリーの顧問だった。
「この方」と言ってしまうほど尊敬している。
「私は学長になることについてとても悩みました。私に何ができるのでしょう。 キャンパスを一日歩いて元気のない学生に声をかけ、元気のある学生にも声をかけていきます。」かっこいいなーと思ったね。 とても感動した(涙)。
就職
ジャーナリズムコース 放送論オーディションで10人に選ばれた。 NHKのオーディション5000人中15人に選ばれ、最終まで残った。 最終問題、サザエさんの漫画の説明、ここでミスをして不合格 。結局おやじの証券会社に就職して15年ほど働いたかな。
コール・シャンティー正指揮者
城北高校OB合唱団が5年ほど活動した後コール・シャンティーに改名。
都民合唱コンクールで13回1位を獲得した。その当時は80人ほどの団員がいた。
副指揮者をしていたが1977年に正指揮者になった。
グリーでは指揮はしていなかったので、シャンティーで指揮者としての勉強をした。 とにかく関屋先生が親分、都連の理事会が出会いだった。 関屋先生は心の指揮を教えてくれた。指揮の振り方が関屋先生によく似ていると言われたこともあった。バーバーのAgnus Deiは関屋先生に「お前にしちゃ、いいよ」と言われた。 関屋先生とは本当にうまが合い、信頼していた。 その関屋先生が亡くなり、辻先生が亡くなり、指揮者仲間で心を分かってくれる人がいなくなってしまった。
合唱への思い
全日本合唱連盟の理事をしていたとき、誰も合唱の意義について語らなかった。
俺は合唱人口を増やすことは20年前から叫んでいる。
そして「君が代」ではない国民歌を作ることも夢だった。
この歌を歌うと誰もが熱くなれるそんな国民歌を作ってみたかった。これが実現すれば、合唱に対する興味が沸くに違いない。これは合唱連盟にしかできないことだと議題に提案した。しかし、1回も議題にあがることはなかった。
私は戦っている方が嬉しい。ストレスを感じたことはない。これをやったらどうなるか、喜びをいつも求めている。もっとやればもっと喜べる。生きることは本当に嬉しいことなのだ。
合唱のテキストは平和や愛、真理、神で満ちあふれている。
それにふれることで平和への希求が高まるに違いない。 生きることで幸せになれる自信がある。
あと何年この先・・・とも考えるが・・・。まだ大丈夫。

2010年2月5日(金)18:00〜21:30中野にて

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